聖書箇所:ルカによる福音書1章67~80節
我らの神の憐れみの心
天使の告げた言葉にしたがって、老齢の夫婦であったザカリアとエリサベトの間に息子が生まれました。そのときまでザカリアは、口が利けず耳も聞こえなくされていました。息子が誕生し、その子がヨハネと名付けられたとき、ザカリアの口が開き、舌がほどけます。そしてザカリアは神を賛美し始めました(64節)。その直後に記されているザカリアの預言は、口が利けるようになったザカリアが語った、神への賛美の言葉でもあります。また66節で人々は、ヨハネについて「この子は一体どんな人になるのだろうか」と語りました。それに対する答えを提示するという意味も、この預言にはあります。このヨハネの働きの先に、あけぼのの光と言われる救い主の到来、クリスマスの出来事があるのです。
まず「預言」という言葉について確認しておきます。この言葉を聞くと、未来のことを言い当てる未来予知のようなものを思い浮かべるかもしれません。確かに今日の預言にも、76節以降には未来に起こることが触れられています。しかし75節までは、基本的には過去のことが中心に語られています。つまり預言においては、その内容が未来か過去か現在かは重要ではありません。時間的な制約を超えて、神のご意志を伝える言葉が預言です。
この預言の意味を確認した上で、ザカリアの預言の内容を見てみましょう。前半75節までには過去に起こったことが中心に語られています。それはすなわち旧約聖書の時代のことです。ここで預言されていることは、昔から聖なる預言者たちの口をとおして語られたことです。それらはすべて旧約聖書の預言書に記されている内容です。旧約聖書の内容に基づいて預言がなされたのです。そこで登場するダビデもまた旧約聖書に登場する偉大な王です。神はこのダビデに対し、彼の子孫から永遠に民を治める真の王が出ることを約束してくださいました(サムエル下7章)。この真の王のもたらす救いの内容が71~75節で明かされています。我らの敵、すべて我らを憎む者の手から救ってくださること、そして救われた民が恐れなく主に仕え、主の御前に清く正しく歩むことです。
残念ながらダビデの王国は、民の罪の故にバビロンによって滅亡することになります。民はバビロン捕囚によって異国に連れて行かれ、神を知らない人々に支配されることになりました。そこで神の民は、ダビデに語られた約束に従って神が真の王である救い主を来たらせてくださることを待ち望みました。これが、75節までの預言の背景です。ただ一点だけ、旧約聖書の範囲を超える内容をザカリアは預言しています。それが69節の「僕ダビデの家から起こされた」です。旧約聖書の範囲に留まるならば「起こされる」という未来形で記されるべきです。しかしザカリアは、旧約聖書に記された神の約束が実現したと預言します。このことがクリスマスにおける救い主の誕生を示し、またここから始まる新約の時代の到来を示しています。ただし厳密に言うならば、ザカリアが預言しているこの時点ではまだ救い主は誕生していません。しかし天使の言葉が実現して、すでにヨハネが誕生しました。ならば同じ天使の言葉で示された救い主の到来もまた、すぐに実現することが確実なのです。今まさに確実に起こることとして、ザカリアは「起こされた」と過去形で預言したのです。続く76節からは、未来に関する預言です。ここで息子ヨハネの働きも具体的に示されています。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせることです。「その道」とは、バビロン捕囚で支配されている民が、真の王をとおして神のご支配される国へと帰る道です。それは罪の赦しを伴います。民が神から引き離されたのは、彼らが罪を犯して神から離れてしまったからです。その民が神の御許に帰ることができるのは、当然罪の赦しが与えられるからです。そのことをヨハネは、人々に知らせることになるのです。
ザカリアの預言から、クリスマスに来られる救い主がもたらされる救いの内容を知ることができます。それは罪が赦されることであり、神の御許へと帰ることであり、そこで神に仕えることです。わたしたちはしばしば、神に仕えることを、救いに伴いつつも、救いとは分けて考えがちです。しかし神に仕えることは、救いの一部なのです。救われる前の民は、神を知らない支配者に支配され、そこで苦労していたからです。現代を生きるわたしたちもまた、お金や人間関係やSNSのいいね!など、神以外の何かに支配されていないでしょうか。それらはすべて、わたしたちの能力は愛してくれますが、わたしたちの存在そのものを愛してはくれません。役に立たなくなれば捨てられます。それが神ではない支配者の姿です。そういったものに仕えるのは、苦しいのです。そのようなわたしたちを照らし、わたしたちの存在そのものを愛してくださる神に仕える生き方へと解放してくださる。これがクリスマスにお生まれになった救い主の救いであり、その中心である十字架と復活の御業なのです。
このことはすべて我らの神の憐れみの心によります。わたしたちが何かをしたから与えられたものではありません。神はわたしたちの能力ではなく、わたしたちの存在そのものを愛してくださっているからです。救い主をとおしてこの恵みをいただいて、罪赦され、わたしたちの能力ではなくわたしたちそのものを愛してくださる神に仕えることができるのです。クリスマスにお生まれになるお方の救い。それはわたしたちの能力だけを愛する支配者からの解放です。神から離れているわたしたちの罪が赦され、わたしたちの存在を愛してくださるお方に恐れなく仕えて生きることです。その恵みの中で、クリスマスへと向かう一週間を歩んでいこうではありませんか。