聖書箇所:ルカによる福音書2章1~7節
ローマ皇帝と幼子の救い主
キリスト教とは、人としてお生まれになった主イエスを神の御子救い主であり、また神でもあられると信じる宗教です。それゆえにクリスマスは、神なるお方がこの地上に来られた出来事だということができます。キリスト教に限らず、神が地上に降りて来る神話は様々あります。その多くは、地上での営みとは一線を画すような形で、それこそ光り輝いて空から降りて来るような様子で描かれるのが普通です。しかし主イエスキリストは違っていました。このお方は、皇帝アウグストゥスやシリア州の総督キリニウスといった支配者たちのものでひっそりとお生まれになられました。そのこともまた、このお方がどのような救い主であるのかに関係しています。そこで本日は特に、皇帝アウグストゥスとの関りのなかで、主イエスキリストがどのような救い主としてお生まれになったのかを見てまいります。
皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国最初の皇帝です。アウグストゥスは必ずしも個人名ではなく、皇帝に与えられる称号です。初代皇帝は、個人名でいうならばオクタウィアヌスという名でした。この人は、ローマという大国が共和制から帝政へと移行するという難しくも重要な時期の統治において、指導力を発揮しました。その功績をふまえ、単にアウグストゥスといえば、この初代皇帝のことを指すようになりました。この初代皇帝アウグストゥスについて記した本の副題に「神の息子アウグストゥスと人間オクタウィアヌス」とついているものがありました。キリスト教では、主イエスが人でありつつ神の御子であると信じています。しかしこの時代の人びとは、この皇帝アウグストゥスこそが人間でありつつ神の息子であると理解していました。さらに言うならば、この時代において「救い主」という呼び名は皇帝アウグストゥスを指す言葉でした。実際この人は、そう呼ばれるにふさわしい力を持っていました。今日の御言葉においても、この人の命令により、全領土の住民(直訳すると「世界のすべて」)に対して住民登録がなされることとなりました。この人は、この時代の世界を動かすほどの力を持っていました。そして人々からも受け入れられていました。
この偉大な皇帝の命令にほんろうされる一組の若い夫婦がおりました。それが主イエスの父ヨセフと母マリアでした。皇帝の命令に従って、ヨセフはベツレヘムというダビデの町へ上っていきました。その旅路に、婚約者のマリアも同行しました。二人は結婚前の婚約期間でした。この時代の常識から言えば、性的関係を持たない婚約期間には子供はできないはずでした。しかしこのときマリアは聖霊によって妊娠し、臨月を迎えていました。家父長制の強いこの時代、妻の登録は夫がまとめてできたはずです。ヨセフの立場で考えるならば、里の両親に臨月のマリアの面倒を見てもらい、自分だけで旅をするのが自然です。しかしマリアは、危険を承知でヨセフと共に旅をします。それは、彼女が里に居づらかったからです。普通ならば妊娠しないはずの婚約期間中に妊娠したマリアは、周囲の人から見れば浮気したとしか思えません。人のつながりが強い田舎町ナザレで周囲の人々から白い目で見られているマリアを、安心して里に置いておくことはできません。里に居場所のないマリアはやむを得ず、危険を承知で、ヨセフと共に旅をすることになりました。彼らに居場所がないのは、里だけではありませんでした。旅先のベツレヘムにおいても、お産が始まったマリアを受け入れることのできる部屋が、宿屋にはありませんでした。「泊まる場所」は、直訳すると宿る場所です。それは単に泊まる部屋である以上に、安心して受け入れてもらえる場所を指します。そのような場所が、ヨセフとマリアと、そして産まれた主イエスキリストには、里にもベツレヘムにもありませんでした。
ここで皇帝アウグストゥスと主イエスキリストを比べてみましょう。方や、優れた統治力によって人々から受け入れられている皇帝アウグストゥスがいます。方や、どこにも受け入れてもらえないなかでひっそりと生まれた幼子イエスがいます。どちらが、真の神の子でしょうか。圧倒的に皇帝アウグストゥスの方が神の御子らしく、救い主らしかったでしょう。しかし聖書の語る救い主は違います。少し先の11節で、天使は「この方こそ主メシアである」と語っています。「こそ」という言葉には、「皇帝アウグストゥスではなく」という意味が込められています。優秀で偉大な皇帝ではなく、受け入れられる場所もなくひっそりとお生まれになった主イエスキリストこそが、真の救い主なのです。
現代にも、皇帝アウグストゥスのごとく絶大な権力を振るっている人々がいます。そのような力ある人が、神の息子であり救い主であるかのように、もてはやされています。しかしそのような人々の支配のなかで、多くの人々がほんろうされて、命が失われています。その支配のなかで、わたしたち自身もまたそれぞれに重荷を負いながら生きています。そのようなわたしたちのために、救い主はお生まれくださいました。絶大な権力によって人々を意のままに治める救い主ではありません。自らがしもべとなり、わたしたちのために命を投げ出して十字架におかかりくださった救い主です。それほどまでに、わたしたちの痛みや苦しみを、共に負ってくださる救い主です。
世の力ある人々は、わたしこそがあなたの重荷を取り去り、苦しみから解放することができる、と言うでしょう。しかし人を救う力は人間には与えられていません。その力を持つお方は、ベツレヘムにおいてひっそりとお生まれになった真の救い主をおいてほかにはいません。このお方は、わたしたちの痛みを知り、共に負ってくださる救い主です。この方こそ、わたしたちの命を救ってくださる救い主です。