2024年12月29日礼拝説教「命に通じる門から入れ」

 

聖書箇所:マタイによる福音書7章13~14節

命に通じる門から入れ

 

 主イエスが、弟子たちや自らに従おうと集まった人々に語られた山上の説教の言葉に聞きます。今日の箇所では、道と門についてのたとえ話です。主イエスが活動された現在のパレスチナは、交通の要所でした。多くの人びとが、道に従って往来していました。それゆえ道とは、その道を通っている人々の歩みや生き方を決め、形作っているものと言えます。道という言葉のこのような用い方は、使徒9:1や一コリント12:31などにおいても見ることができます。ところで道は、単独で存在するものではありません。町と町、国と国をつないでこそ存在価値があります。そして多くの場合、それらの道の終わりや始まりにあるのが、城壁に囲まれた町の出入り口である門でした。門は道の始まりであり終わりでもあります。今日の御言葉で主イエスは弟子たちに、「狭い門から入りなさい」と言われています。ですから、今日の箇所における門は、道の終わりを指します。道が人の生き方なのであれば、門は人生のゴールであり目的地です。教理の言葉で言うならば、終末を指しています。年の最後の主日に、終末を意味する門についての御言葉を聞く。このことはわたしたちにとって重要な意味があります。この年の終わりに、わたしたち自身が何を目指して生きているかが、この御言葉をとおして問われています。

 さて、主イエスのたとえ話を見てみましょう。このたとえ話においては、広い門と狭い門、広い道と細い道が対比されて語られています。一つの町に広い門と狭い門があるわけではありません。広い門を持つ町と狭い門を持つ町が、別々に存在しています。そしてそれぞれの門に通じる広々とした道と、細い道があります。広々とした道の先にある広い門は、滅びに通じています。細い道の先にある狭い門は命に通じています。どの道を進み、どのように生きるかは、最終的に命に至るか、滅びに至るかの違いを生みます。そして多くの人々は広い道を行き、広い門から入っています。狭い門を見出して、細い道を行く人は少ないのです。では広い道を行っている多くの人々と、細い道を行く人々とは、具体的に誰なのでしょうか。広い道を行っている人々がキリストを信じていない人々で、細い道を行く人々とはキリスト者を指すのでしょうか。今日の箇所をそのように理解するのは明らかに的外れです。それは、今日の箇所の続きを見ると分かります。15節には偽預言者が、21節には主イエスに向かって「主よ、主よ」と言う人々が登場します。どちらもキリスト者です。つまり広い道を行って滅びに至る生き方をしている人と、細い道を行って命に至る生き方をしている人は、どちらもキリスト者なのです。主イエスの周りにいる人々は皆、主イエスに従おうとして集まったキリスト者です。その人々に、あなたたちはどちらの道を行くのかと、主イエスは問うておられるのです。

 ここでわたしたちは不安に駆られます。ここにいる大半の人びとは、滅びてしまうのか。主を信じている私も、高い確率で滅びてしまうのではなかろうか、と。ここで大切なことは、主イエスが伝えようとしている意図に集中することです。主イエスは、自らを信じる者のほとんどが滅びることを伝えようとしているのではありません。この箇所は山上の説教の中の一節です。その流れから見ても、滅びの言葉をここでいきなり語りだすとは考えられません。主イエスが問うておられるのは、この言葉を聞く人々がどの門を目指してどのように進み、どう生きるかです。広い道を行く人々が多いということは、何も考えずに生きるならば広い道をたどってしまうということを指しています。狭い門へと至る狭い道をたどるためには、意識してその道を選び取らなければなりません。また、広さは快適さを示す言葉です(ヨブ36:16など)。反対に狭さや細さは、苦難を指しています。命に至る狭い門へと続く細い道をたどるのは苦難を伴うのです。だからこそキリストに従おうとする者は、あえてこの道を選び続ける必要があるのです。

 では狭い門へと至る細い道を行くとは、どのような生き方でしょうか。それは7:24において明かされています。主イエスの言葉を聞いて行う生き方です。結局のところ狭き門とはキリスト御自身であり、門の先にあるのは神がご支配してくださる天の国です。そして主イエスの言葉を聞き、それを行う生き方こそが、狭い道を進み天の国へと至る歩みなのです。わたしたちは意識してこの道を選び取る必要があります。多くの場合、その生き方は快適ではなく、苦難を伴う道だからです。いやすでに、主イエスの周りにいてこの言葉を聞いていた人々は、主イエスの言葉に従うことで苦難を受けていたでしょう。それは、わたしたち自身のこの一年の歩みや浜松教会の一年の歩みも、そのまま当てはまるのではないでしょうか。ここにいるお一人お一人が、教会のことについて悩み、家族のことについて嘆き、自らのことに弱さを覚えながらこの一年を過ごしてきました。このような苦難の中にあったこの一年の歩みを覚えるとき、苦難を伴う狭い道を歩んだ先に、この上ない命の恵みがあることが、今日の御言葉から示されるのです。

 

 どうか、間もなく来る新しい年の歩みもまた、主イエスキリストの御言葉に聞き、それを行う道をたどりゆこうではありませんか。それは引き続き苦難を伴う歩みでしょう。苦難のない快適な道に流されるのではなく、意図して意識的に細い道を、御言葉に聞き従う生き方を選び取ってまいりましょう。そこには、わたしたちのためにすべてをささげてくださる主イエスキリストがおられます。その先には、わたしたちを愛してやまない主なる神が治めてくださる天の国があります。この場所を目指して、新しい年も、狭き門へ続く細い道を歩み続けようではありませんか。