2025年1月5日礼拝説教「見た目ではなく実から見分ける」

聖書箇所:マタイによる福音書7章15~20節

見た目ではなく実から見分ける

 

 昨年末に引き続き、主イエスキリストが弟子たちに語られた山上の説教の御言葉に聞きます。本年は、「実」についての御言葉から一年の歩みを始めます。よき実りが与えられる年となるよう、共に歩んでまいりたいと願っています。

 今日の箇所で主イエスはまず、偽預言者への注意を教えています。相手が同じ主を信じているキリスト者であっても、無条件に全幅の信頼を置いてよいわけではありません。キリスト者もまた罪人ですから、見分ける必要があります。それは、いい加減な信仰者とまじめな信仰者を見分けるのではありません。見分ける対象は、偽ではあるものの預言者として教会に仕えている人々です。教会において中心的な働きを担う人々こそ、慎重に見分ける必要があります。事実、教会で中心的に働く人々もまた罪を犯します。その際の教会への影響は、他の人々が罪を犯す場合とは比べものにならないほど深刻なものとなります。

 さて主イエスは、偽預言者を「羊の皮を身にまとった貪欲な狼だ」と言われています。羊はしばしば神の民を指す言葉として用いられます。彼らは主イエスの言葉に従って他者を愛し、心から受け入れる人々です。一方で狼は、自らの益のために神の民を散らす存在です。彼らの目的は自らの腹を満たすために他者を犠牲にすることです。このような特徴を持つ狼と羊は簡単に見分けることができそうなものです。しかし主イエスは「狼は羊の皮を身にまとっている」と言われます。その人の目に見える側面だけを見ていても、神の民である羊なのか、それとも羊の皮をまとった狼なのかを見分けることはできません。それゆえ主イエスは、彼らを実によって見分けるように教えておられます。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶからです。良い木と悪い木もまた、その見た目だけでは判断がつきません。しかし実を見れば、両者の違いは明らかです。ならばここで言われている、その人の実りとは何を指すのでしょうか。よく目にする説明は、「実とはその人の行いを指している」というものです。しかしこの説明だけでは不十分だと感じます。なぜなら偽預言者は、預言者として振舞うことができるほど行いが立派であったはずだからです。そう考えますと、良い木と悪い木を単に行動の良し悪しで見分けることはできないのです。

 ところで実と木の違いは何でしょうか。実は成長すると、木から切り離されます。そして、木とは別のところで成長します。つまり木そのものを見るのではなく、その周りに良い実りがあるかどうかが大切です。そこから、木の良し悪しを見分けることができるのです。教会における実りとはなんでしょうか。それは、主なる神を愛し、主イエスの御言葉に聞き従う兄弟姉妹たちでありましょう。大切なのは木の周りの実りなのです。木そのものが立派か否かは、それほど重要ではありません。このことは、主イエスキリストご自身にもっともよく表れています。主イエスこそが、良い木の代表であられます。そして主イエスキリストという木は、決して立派な木ではありませんでした。お生まれになったのは家畜小屋で、死を迎えられたのは十字架の上です。むしろ見栄えのしないボロボロの木であられました。もっと立派な木は、他にたくさんありました。ローマ皇帝という大樹があり、大祭司という木も立派でした。しかし十字架の主イエスの周りには、どの木よりも多くの実りがありました。この見栄えのしない木の実りは、時代を超えて今日この場所にもあります。ここに集うお一人お一人こそが、十字架のキリストの実りです。ここに実りがあるという事実もまた、主イエスキリストというお方が、見栄えは悪くとも良い木であることの何よりの証しです。

 反対に、自らが立派な木であろうとするときには注意が必要です。不完全なわたしたちが自らの立派さを証明するためには、自分よりももっと不完全な人々を踏み台にするしかありません。その結果、他者の欠けや弱さや罪を、愛のないまま指摘する側になってしまいます。結果的に他者を自らの立派さのための犠牲にすることになります。主イエスが言われている偽預言者とは、まさにそのような人々を指しています。

 ここでわたしたち自身が、十字架のキリストという、見栄えのしないボロボロの木の実りであることを思い起こしたいのです。そうであるならば、わたしたち自身も立派な木である必要はありません。欠けがあってもいいのです。弱さがあってもよいのです。わたし自身の立派さや見栄えよりも、わたしの周りに良い実りがあるかどうかの方がはるかに大切です。わたしという存在をとおして、周りの人々が主イエスの十字架の赦しの恵みを受け、神の愛を喜ぶことができているでしょうか。ここにこそ、良い木か悪い木の違いが、そして羊と狼の違いが、明らかにされるのです。

 

 さあ、みなさん、周りを見てみてください。ここにいるのが、みなさんお一人お一人の木の実りです。ここに共に集っているお一人お一人が、もっと主イエスキリストを好きになることができるように、行動しようではありませんか。さらなる実りが与えられるように、キリストが十字架によって与えてくださった愛で、世の人々を愛していこうではありませんか。わたしたち自身は立派でなくてもよいのです。主イエスご自身が見栄えのしないボロボロの木だったのです。むしろそのような、弱さの中にある立派ではない木からこそ、良い実は育つのです。そのような良き実りが多く与えられる2025年であることを、心から願っています。そのような良き実りが与えられるために主に仕え、互いに愛し合いながら、この一年を歩んでいこうではありませんか。