2025年1月12日礼拝説教「奇跡ではなく天の父の御心を」

聖書箇所:マタイによる福音書7章21~23節

奇跡ではなく天の父の御心を

 

 今日の箇所では、主イエスに向かって「主よ、主よ」と言う人々が取りあげられています。確かに主イエスこそ、我が主と呼ぶべきお方です。それゆえこの呼びかけは、神学的には大変正しい行為です。かの日(すなわち終末の裁き)において裁き主なる主イエスキリストの前に立ったとき、多くの人々がこのお方に対して「主よ、主よ」と言うでありましょう。しかしそのような人々が皆、天の国に入るわけではありません。わたしの天の父の御心を行う者だけが、そこに入ることができると主イエスは言われます。天の父の御心を行うか否か。これが天の国に入れるかどうかの基準です。

 このように言いますと、救われるためには行いが必要であるかのような印象を受けます。それは信仰による救いとは対立するようにも見えます。しかし主イエスが弟子たちに問われるのは、信仰か行いかという選択ではありません。そもそもわたしたちは、日々何かしら行動しながら生きています。信じるだけで何もしない、ということはありません。誰もが自らの信じるところに従って行動します。そして主イエスは、その行動の内容を問われます。「主よ、主よ」と言う人々は、決して口だけで行いがない人々ではありません。彼らはそれまでの歩みにおいて御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろと行ってきました。これらはこの当時の教会において、当たり前のように行われていたことです。彼らのこの働きによって教会に導かれた人々も少なくなかったでありましょう。彼らは、この実績を、裁き主なる主イエスに向かってアピールしているわけです。自分たちは、あなたのためにこのような実績を積み上げてきました、と。しかしそのとき主イエスは23節の言葉で彼らを完全に拒否されます。彼らは天の国に入ることはできませんでした。

 主イエスはこの言葉によって、預言すること、悪霊を追い出すこと、奇跡を行うことを全く否定しているわけではありません。現在でも悪霊を追い出すこと、癒しの奇跡を行うことを強調し、それらを大切にする教派があります。その信仰の在り方をこの御言葉によって否定することは、主イエスの意図とは異なります。主イエスがおっしゃりたいのは、実績を積み上げることが天の国に受け入れられる条件ではないということです。わたしの天の父の御心を行うことこそ天の国に入る条件であると、主イエスは言われます。「主よ、主よ」と言う人々を主イエスが拒否されたのは、彼らが天の父の御心を行っていなかったからです。彼らは神の御名によって様々なことを行い、実績を積んできました。しかし彼ら自身は、神の御心を行っていませんでした。ここにこそ、主イエスの指摘される問題点があります。

 ところで主イエスは、天の父の御心を行っていない人々を「不法を働く者ども」と呼びかけておられます。裏を返せば天の父の御心を行う者とは、法を行う人々を指します。この法とは、旧約聖書に記された神の律法です。このことは、主イエスが自らのことを「わたしは来たのは、律法を廃止するためではなく完成するためである」(5:17)と語られたことにも表れています。そしてこの律法の中心にあるのは、神を愛することと隣人を愛することです(22:37)。

 ここから、主イエスに「主よ、主よ」と言う人々の問題点があらわになります。彼らは教会のために労苦し、教会に沢山の貢献をしていながら、神と隣人を愛していないのです。彼らが愛していたのは、信仰的に神に仕えている自分自身です。だからこそ彼らは主イエスの前に立ったとき、自らの実績をアピールしたのです。最後の審判の時に何をアピールするか。そこに、その人の生き方の土台が如実に表れます。この場面で彼らがより頼んだのは、自らの実績でした。この人々に決定的に欠けているのは「救いの恵み」です。救われるべくもない罪人を、神は恵みによって救い出してくださいました。それが旧約聖書の時代から一貫した、神の救いの御業です。この神の救いの恵みが、彼らには抜け落ちてしまいました。彼らにとって救いとは、事実上自らの実績によって得られる報酬となっていました。実績を積むことに熱心な彼らは、天の父の御心を行うことには無頓着でした。罪人の罪を赦し、キリストの十字架によって人々を救おうとなさる神の御心に、彼らは目を向けませんでした。つまり彼らは、他の人々の罪の赦しや救いには無関心でした。そのような彼らは、天の国に入ることはできませんでした。

 

 今日の御言葉には、厳しい主イエスの裁きがあります。しかしここには、神の救いの恵みへの招きがあります。自分の救いのために必死になり、他者を押しのけてまで実績を積む生き方からの解放が、この裁きによって宣言されています。恵みによって罪人を救われる神の御心が、キリストの十字架にこそ示されています。この神の恵みによって救われたわたしたちが、今度は天の父の御心を行うことへと招かれています。わたしたちはもはや、自らの救いのために実績を積み上げる必要はありません。自らが救われるために、教会に貢献する必要はありません。このわたしのために、キリストが十字架におかかりくださったからです。こうして恵みによって救われたわたしたちに求められている行い。それは自らの救いのためではなく、隣人である他の人々の救いのために生きることです。人々の罪が十字架によって赦され、救われていくことを喜びとして生きることです。わたしたちの天の父が、キリストの十字架によって人々の罪が赦されることを望んでおられます。この御心を行うこと。それが聖書に記された律法を行うことであり、神と隣人を愛して生きることなのです。罪人を救われる恵み深い天の父の御心を行う者として、新たな一週間を歩みだしてまいろうではありませんか。