聖書箇所:創世記36章1~43節
神の民の隣で歩む人々
創世記36章には、ヤコブの兄エサウの系図が記されています。ヤコブと違って神に選ばれていないエサウは、究極の脇役です。彼のその後のお話などなくても、創世記は問題なく続いていきます。それにもかかわらず、エサウの子孫たちのことが36章で丁寧に記されています。それゆえにこそ、36章のエサウの系図には意図があるのです。
皆さんの持つエサウの印象はどのようなものでしょうか。長子の権利を簡単に譲ってしまったり、怒りのあまりヤコブを殺そうとしたりと、否定的な印象を抱かれることが多いと思うのです。けれどもそれは、創世記が伝えようとしているエサウの姿とはかけ離れています。確かに、彼に欠けが多いのは事実です。それにも関わらず、否定的な評価は記されていません。ヤコブに殺意を向けたときですら、そのことを淡々と記すのみです。それどころか弟ヤコブ帰還の場面では、彼を暖かく迎えるエサウの姿が丁寧に描かれています。そして35章最後では、エサウとヤコブが協力して父イサクを葬っている姿が描かれています。創世記でのエサウは、肯定的で寛容な側面が強調されています。それは36章でも当てはまります。彼は家族を連れてカナンの地を離れ、セイルの山地に移りました。ヤコブとエサウが共に住むには、土地が狭すぎたからです(7節)。そこには弟ヤコブへの配慮があります。彼が移住しなければ、ヤコブは神の約束にしたがってカナンの地に住み続けることはできなかったはずです。
この移住によってエサウの子孫たちは、ヤコブの子孫たちの隣で別の民や王国を形成していくこととなりました。その様子が、9節以降のエサウの系図によって記されています。その中にはヤコブの子孫である神の民に敵対し、滅ぼされてしまう民がいる一方、神の民にとってなじみ深い名前も含まれています。また31節以下には、エドムの王国について記されています。ヤコブの子孫であるイスラエルの人々にまだ王がまだいなかった時代に、エサウの子孫たちにはすでに王がいました。政治体制を整えるという面においては、エサウの子孫たちの方が優れていたことが分かります。その一方、カナンの地に住み続けたヤコブとその家族たちは仲たがいし、ねたみあっていました(37:1~4)。創世記においては、エサウよりもヤコブの方が否定的な姿で描かれています。それにもかかわらず、神が救いの御業のためにお選びになったのは、ヤコブの家族たちでした。つまり人の立派さや優秀さや人柄が、神の選びの基準ではないのです。神の選びは、まさに神の自由なご意思によります。人の側の何かが神の選びの根拠ではないのです。この点については、パウロもローマ9:10~12で書いています。ですから神に選ばれた者は、自らが選ばれた事実によって自らの優秀さを主張することは一切できないわけです。このことが、優れていないヤコブが神に選ばれたことに示されています。そしてこの神の選びによって、わたしたちもまた神の民に選ばれたのです。わたしたちもまた、自らが優秀で優れていて信仰的だから神に選ばれたわけではありません。それゆえわたしたちもまた、神から選ばれて救われたという事実を根拠にして、いまだ救われていない人々に対して優越感を持つことはできません。
では、ヤコブのようには選ばれなかった兄エサウとその子孫たちの歩みはどう理解したらよいでしょうか。創世記は、彼らの歩みを省略することなく大切に記しています。それは決して堕落しきった歩みではなく、取るに足らない歴史でもありません。ときに神の民と関りながら、ときに神の民に先立つ見本となりながら、彼らの歩みもまた神の御業に用いられました。神の民の隣で歩んだ人々の歩みにもまた、神の救いの御業において積極的な意味が与えられています。そして神の民の隣での歩みをとおして、彼らにも神の民に加わることへの招きが与えられているのです。
わたしたちの周りにいるのは、主イエスキリストを信じている人々だけではありません。わたしたちの隣には、今この時点では神の民ではない多くの人々がいます。この人々の歩みを神の救いの御業というレンズで見るとき、そこにもまた積極的な意味があるのです。キリストを信じていない人々の歩みや生き方を、決して軽んじることがあってはならないのです。
もちろんこのような人々のなかには、キリストを否定し、神の民にあえて敵対する人々もいるでしょう。エサウの子孫のなかにも、神に敵対した人々はいたのです。その一方で、神の民との良き交わりが与えられた人々も多かったのです。そして神の民が、エサウの子孫から学ぶことも大いにあったはずです。そのようにして、神の民の隣で歩む人々が用いられたのです。だからこそわたしたちもまた、神の民の交わりだけに閉じこもるべきではありません。もしわたしたちが教会の交わりだけに閉じこもるならば、彼らをとおしてなされる神の救いの御業に与ることはできないでしょう。さらにもしわたしたちが隣で歩む人々を「キリストを信じていない」という理由だけで軽んじるならば、軽んじられた彼らがキリストを信じて神の民に加わることは困難です。神の民の歩みが、そのようなものであってはならないのです。わたしたちの隣で今歩んでいる、キリストを信じていない人々と積極的に関わり、彼らの歩みを重んじ、彼らの歩みからも学ぶべきところを謙虚に学びたいのです。このような積極的な関わりをとおして、神の救いの御業がなされていくのです。こうしてわたしたちの隣で歩む人々に、神の民に加わることへの招きが与えられていくのです。今はまだキリストを信じていない人々をも、主なる神はわたしたちの隣に導いてくださっています。この人々と共に生きる歩みへと、ここから共に召し出されてまいろうではありませんか。