2025年2月2日礼拝説教「人生の嵐がきた時に」

聖書箇所:マタイによる福音書7章24~29節

人生の嵐がきた時に

 

 本日の箇所は、主イエスの山上の説教の結びの部分です。ここにおいて主イエスは、家と土台のたとえ話を話されます。ここで家を建てる二人の人が比較されています。彼らは賢い人と愚かな人と言われています。つまりは良い例と悪い例が比較されているわけです。彼らがそれぞれに建てた家の違いは、目に見える部分ではなくその土台にあります。岩の上に家を建てたか、砂の上に家を建てたか。この違いです。

 わたしたちが建物を建てるとき、目に見える部分に関心が行きがちです。どのような形の部屋にするか、照明はどうするか、壁の色はどうするか、床の材質はどうするか。しかしある建築家は、目に見えないところこそ大切だと言っています。壁の中の断熱材をどうするか、物置をどこにどの程度配置するのか、耐震性能をどうするか。こういった目に見えない部分にこそ、建物の本当の意味での良し悪しを決めます。その最たるものが、土台です。土台に問題があれば、その上にどれほど素晴らしい建物を建てても台無しになってしまいかねません。

 ところで、仮に同じ予算で家を建てたとしたならば、土台にお金をかけた家と、土台にお金をかけなかった家とでは、どちらの方が立派な見栄えの家が立つでしょうか。それは後者です。目に見える家の部分に、より多くのお金をかけることができるからです。ですから家が建ってから、嵐が来る前までの間、二つの家を見た人々は、愚かな人こそがむしろ賢く家を建てた人だと思ったはずです。しかし嵐が来たとき、愚かな人と賢い人の評価は全く逆転することになります。

 これはたとえ話です。賢い人と愚かな人がそれぞれ誰を指すかを、主イエスは明確に語っておられます。賢い人とは、主イエスの言葉を聞いて行う人。愚かな人とは、主イエスの言葉を聞くだけで行わない人です。問われているのは、主イエスの言葉を聞いた上で、それを行うか否かです。この山上の説教において主イエスは、旧約聖書において与えられている律法の意味を解き明かしてこられました。その理解にしたがって律法を守り行うようにと、主イエスは弟子たちに求めておられます。次に家は何を指すでしょうか。家を建てることは一生のうちで何度もすることではありません。そして建てた家は、その人の生きる基盤となります。ですから家は、それを建てた人の人生と言ってもよいでしょう。また、主イエスの言葉を聞いている人が建てあげる建物ですから、それは教会をも指すでしょう。それほど重要な意味を持つ家を、嵐が襲います。雨、洪水、風。パレスチナ地域は、このような災害がよく起こりました。これらはわたしたち自身や教会がしばしばさらされる試練や苦難を指しています。この嵐の理解については、エゼキエル書13章10節以下が参考になります。そこには平和がないのに「平和、平和」と語る神の民がとりあげられています。楽観的な彼らに対して、主なる神が嵐を起こし、土台をあらわにされます(エゼキエル13:13~14)。わたしたちの人生にしても、教会にしても、しばしば嵐のような試練にさらされます。それらを用いて神は、キリストの言葉を聞くわたしたちや教会が、本当のところは何を土台としているかを露わにされます。岩、すなわちキリストを土台としているならば、嵐に耐えることができます。しかしキリスト以外を土台としているならば、それはいくら立派に見えたとしても砂上の楼閣です。そしてキリストを土台としているか否かは、キリストの言葉を聞いて行うか否かに表れるのです。ここで主イエスが、「聖書」ではなく「わたしの言葉」と言われている点にポイントがあります。聖書の言葉に聞き、その言葉を行いさえすれば無条件に大丈夫なのではないのです。

 山上の説教において、反面教師として念頭に置かれているのが、律法学者やファリサイ派です。彼らもまた聖書の言葉に聞き、学び、その理解に基づいて実践していました。しかしそれは主イエスの教える聖書理解に基づくものではありませんでした。主イエスの言葉を聞いても行わない「愚かな人」が直接指しているのは、聖書の言葉を聞いて行うけれども、主イエスが教えるようには実践しない人々です。では彼らは聖書の言葉をどのように実践していたのでしょうか。彼らは自らを律法の下に置き、徹底的にそれを学んで従うことを重視しました。それは律法を実践する自らを正当化し、立派に見せるためでした。虎の威を借る狐ということわざがあります。律法学者やファリサイ派は、まさに聖書の威を借りて、自らの権威を高めることを求めていました。それが、29節にある「彼らの律法学者」の姿です。このような、キリストも十字架もない聖書理解と実践では、嵐を乗り切ることはできません。主イエスの教えは、そのような聖書の威を借るものではありません。主イエスご自身が、律法の上に立つ権威をお持ちのお方だからです。律法の上に立つ権威あるお方として、主イエスは律法の正しい理解を教えられ、実践されました。その先にあるのが、あの身代わりの十字架でした。

 主イエスは、ご自身の言葉に従う仕方で、聖書の御言葉を行うように求めておられます。それは、聖書の威を借る律法学者のようにではなく、主イエスが教え実践されたように、です。主イエスの言葉に従って御言葉を行う者こそが、岩の上に家を建てる賢い人です。それは聖書によって自らの権威を高める歩みではありません。むしろキリストに従って、あえて誰かのために重荷を担うことへと進む道です。賢い生き方ではありません。人々からは愚かだと言われるような歩みです。しかしそのような生き方においてこそ、死という嵐のときにも倒れることのない、確かな歩みと確かな希望が与えられるのです。そのような歩みを共になしてまいりましょう。