2025年2月9日礼拝説教「清くされた証明」

聖書箇所:マタイによる福音書8章1~4節

清くされた証明

 

 7章までの山上の説教において、主イエスは権威ある者として律法を教えられました。権威とは、辞書によれば他者を従わせる力を指す言葉です。主イエスは、言うまでもなく権威を持つに相応しいお方であられます。このことが、この8章から示されていきます。山上の説教を終えられた主イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従いました。そのことは、主イエスの権威の一つのしるしでありました。

 そのような権威あるお方であられる主イエスのもとに、一人の重い皮膚病を患っている人が近寄ってきました。“重い”とありますから、決して軽い症状でもなければ、容易に治せるものでもなかったはずです。一方でこの病は、命に関わるようなものではありませんでした。ですから、余命いくばくもない患者が、命を長らえるために主イエスを求める、というような状況ではありません。重い皮膚病の困難さ中心は、それが社会的な死を意味するところにあります。レビ記13章の律法によれば、この病は汚れを意味し、隔離が必要とされました。その人に触れると汚れが移るとされました。そのため重い皮膚病を患った人は、周囲から死んだ者とみなされていました。それはまさに社会的な死を意味しています。重い皮膚病の人々の置かれた状況が垣間見える箇所がルカ17:12~13です。ここで重い皮膚病を患っている十人の人は、遠くの方に立ち止まったまま主イエスに語りかけます。誰かに近づけば嫌な顔をされ、雲の子を散らすように自分から離れて行く経験を、すでに何度もしていたからです。それに対して今日の箇所に登場する人は、それでも主イエスに近寄りました。おそらく主イエス以外にほとんど人がいない状況を見計らって、彼は主イエスのもとへ行ったのです。そして彼は主イエスにひれ伏しました。こうして彼が求めたのは、癒しではなく清くされることでした。この点にも彼の痛みの中心が、汚れという社会的な死にあったことが分かります。そしてこの人は、主イエスが自らを清くする権威をお持ちであるということを確信しています。それゆえに、彼にとっての問題は、主イエスが自らの清めを望んでくださるかどうかでした。

それに対する主イエスの反応とその結果が3節です。“たちまち”重い皮膚病が清くなった。ここに、人を清める主イエスの権威が示されています。「よろしい。清くなれ」という主イエスの発言は、一見すると高い所から権威を振りかざしているように見えます。しかし実際には全く違います。この発言は、教会共同訳聖書では「私は望む。清くなれ」です。重い皮膚病の人は、御心ならば(すなわち、あなたがお望みならば)、あなたはわたしを清くすることがおできになる、と語りかけました。それに対して主イエスは、「わたしはそれを望む、だから清くなれ」とお答えになられたのです。しかも主イエスはこの発言をするにあたって、この人に手を伸ばして触れています。主イエスはその人の汚れを自ら引き受けられて、その人に触れられました。このような触れ合いは、社会的に死んでいた彼が失っていたものでした。この触れ合いをとおして、彼は社会的な死から復活したのです。人の罪を担われた十字架と同じように、主イエスは重い皮膚病の人の社会的死を身に受けられてこの人を清め、社会的死から復活させられたのです。このお方の権威は、単に清めるだけにとどまりません。人を生かし、命を与える権威をお持ちなのです。

 この驚くべき権威をお持ちの主イエスが、清められた人に言われた言葉が4節です。主イエスが彼に口止めしたのは、自らの権威を誤解されたくなかったからでありましょう。そのうえで主イエスがさらに命じられたのは、律法で定められている行動です。それらの行動をとおして、この人が確かに清められたことが公に認められます。それは主イエスが、彼を清めて命を与える権威をお持ちであることの証明でもあります。主イエスは律法の上に立つ権威をお持ちのお方です。けれども、決して律法を無視されません。それどころか、律法を用いて重い皮膚病の人を清めて解放されたのです。

 ここにいるのがもし律法学者やファリサイ派だったらどうでしょう。重い皮膚病の人を解放するどころか、自分から遠ざけていたでしょう。この人にさらなる重荷を負わせることしかできないのです。それが権威を持つことなく、ひたすらに律法を守ることに固執した彼らの限界です。それに対して主イエスは、その痛みや重荷を自ら担いながら重い皮膚病の人を清め、律法を用いてその人を重荷から解放されました。主イエスが権威をもって教え実践される律法は、常にわたしたちを重荷から解放する方向性を持っています。

 

 ここで語られている律法は、わたしたちにとって聖書の御言葉であり、そこに示された神の御心です。今日の箇所において、わたしたちが聖書の御言葉をどのような言葉として人々に告げていくのかが問われています。残念ながら聖書の御言葉が、重荷を負わせる言葉として用いられていることが少なくありません。「御言葉によれば、それは罪だ」「あいつらは神の御心にかなっていない」、といった具合に。それらはいずれも、重荷を負う人びとにさらなる重荷を負わせる言葉です。それは主イエスが権威を持って教えられた律法ではありません。主イエスは解放の言葉として、律法を教え実践されました。そうであるならば、わたしたちもまたこのお方の弟子として、御言葉を主イエスがお示しくださったように用いていくこのです。人を重荷から解放する言葉として聖書の御言葉を語り、苦しむ人びとの重荷を共に担う仕方で御言葉を実践するのです。そのところにこそ、重荷から解放し、死から復活させてくださる主イエスキリストの権威が実現します。その器として、わたしたちはここからそれぞれの場所へと歩みだしていくのです。