聖書箇所:マタイによる福音書8章5~13節
あなたが信じたとおりに
権威とは、辞書によれば他者を従わせる力を指します。主イエスが権威あるお方であることが、今日の箇所においても示されていきます。前回の箇所で重い皮膚病の人を清められた主イエスは、カファルナウムに入られます。カファルナウムは主イエスのホームタウンです(4:13)。ですからこのときの主イエスの周りには、山上の説教によって新たに加わった人々だけでなく、個人的に近しい人々もいました。そのなかで主イエスに近づいて来たのが、一人の百人隊長でした。
カファルナウムには、ローマ帝国軍の百人隊が駐屯していました。おそらくはその隊長が、主イエスのところにやってきたのです。そして主イエスに懇願します(6節)。中風は、まひなどにより体が動かなくなる病です。その病のために、彼の僕は大変困難な状況に陥っていました。そのために彼は主イエスのもとにやってきたのです。そのような彼に、主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」とお答えになられます。ここでもし主イエスが百人隊長の家に行って僕を癒したとしたら、ただの癒しの物語で終わります。しかし百人隊長はそれを辞退しました。配慮に満ちた主イエスのお言葉を聞いた百人隊長の発言が、8~9節に記されています。最初に触れたとおり、この箇所は主イエスの権威を示すために書かれています。百人隊長もまた、権威を持っていました。それは言葉によって部下に命令すれば、その通りにさせることができるという権威です。そしてその権威を、あなたもお持ちではないですか、と彼は主イエスに語りかけるのです。ゆえに、わざわざ主イエスご自身に出向いていただく必要はありません。権威のお持ちの主イエスがひと言おっしゃってさえくだされば、自分の僕はいやされる。彼はそう信じていました。ここには百人隊長の主イエスに対する二つの理解を見ることができます。一つは、自分も僕も、主イエスの権威の下にある、ということ。もう一つは、その権威が主イエスの言葉によって実現する、ということ。このような主イエスの権威とその性質が、この百人隊長の言葉によって示されています。百人隊長の言葉を聞いた主イエスは感心します。最上級のお褒めの言葉と共に、主イエスは百人隊長に言われました。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」。ちょうどそのとき、僕の病気はいやされたのでした。
これで物語としては、めでたしなのです。けれども、この箇所で引っかかりを覚えるのが11~12節の宴席のお話です。この11~12節は、なくても話はつながります。それをあえて書くのは、そこにこそ大切な意味があるからです。この宴席は、終末における勝利の宴席を指しています(イザヤ25:6参照)。この宴席の席に着くメンバーをとおして、終末の裁きで最終的に神に受け入れられるのは誰かが示されます。ここに、マタイがこの百人隊長のお話を書いた意図があります。
この宴席の話を理解するために、8節の百人隊長の言葉の最初の一文を取り上げたいのです。なぜ百人隊長は、主イエスに対してこれほど謙遜しているのでしょうか。百人隊長は、ローマ軍に所属する異邦人です。一方、旧約聖書において約束された救い主は、約束されたイスラエルの子らすなわち、ユダヤ人を救う存在として描かれています。百人隊長は、異邦人である自分が本来ならば救いに与るべき存在ではないことを知っていました。だからこそ、この主イエスが自分の家に来てまで僕を救われるなど、考えられなかったのです。それでも苦しんでいる僕のために、主イエスに救いを求めずにはいられませんでした。その彼の姿に主イエスは驚かれ、その信仰をお認めになられました。
この理解をふまえて、11~12節の宴席のお話を見たいのです。東や西から来る大勢の人とは、直接的には異邦人を指します。神から遠く離れている救いに値しない人々です。その代表がこの百人隊長です。このような神から遠く離れている人々が、世の終わりにおいては神に受け入れられます。一方で、この宴席に加わることを拒否されてしまう人々もいます。それが御国の子らです。神の約束に近しい人々(その代表であるユダヤ人)が、終末において拒否されてしまうのです。ここで、この場所がカファルナウムであることの意味が出てきます。そこには、偉大な神の御子、約束された救い主に近しい人々がいます。そのような人々は少なからず、自分たちこそが主イエスの救いに真っ先に与って当然だ、と考えるでしょう。これは自らの常識に主イエスを従わせることであり、自らの権威の下に主イエスを置く態度です。このような、ある種の特権意識を持つ人々が、終末において神に拒否されます。拒否された彼らは、神から遠く離れていたはずの異邦人たちが、自分たちを差し置いて救いの恵みに与る様子を見ます。異邦人たちが神に立ち帰るのを喜ぶのではなく、悔しがるのです。
主イエスは、今日の百人隊長の僕の癒しをとおして、人の思いや行いに制限されることのない自らの救いの権威を示されました。このような相応しくない人々の救いは、まさに主イエスが十字架において実現されたことです。このキリストの十字架による権威を、わたしたちも認めることができるか否かが問われています。神に熱心に仕えるとき、それが認められないことに不満をいだくことがあるでしょう。しかし教会が、そのようなわたしたちの望みにしばられない場所であるということが、キリストの権威の証しなのです。このキリストの権威によって、神から遠く離れ、救いに相応しくない人々が恵みを受けて救われるのです。このことを歯ぎしりして悔しがるのではなく、心から喜ぶ者であろうではありませんか。