2025年2月23日礼拝説教「ねたみを起こす夢」

聖書箇所:創世記37章1~11節

ねたみを起こす夢

 

 本日よりヨセフ物語に入ります。その最初の場面では、イスラエルという名を神から与えられたヤコブの家族の姿が記されています。この一家は、神が地上に救いをもたらすために特別に選ばれた器です。この家族は、現代で言うところの教会につながります。この家族の持つ問題が、ここには記されています。まずはヨセフです。この名は「加える」という意味です。彼は、イスラエルが年寄りになってから加えて与えられた子でした。それゆえにヤコブはこのヨセフをどの息子たちよりも可愛がります。特定の子供だけを可愛がるのは親として不適切です。ヨセフ自身はまだ若く、何の力もありません。実際的な力は、兄たちがすでに握っていました。しかしヨセフは父からの愛を一身に受けていました。そして彼は、兄たちのことを父に告げ口をします。そのヨセフを兄たちは憎み、穏やかに話すことすらできませんでした。穏やかとは、原点ではシャローム(平和)です。この家族には、平和がないのです。神の選びの器であるヤコブの家族は、3つの立場の人々で構成されています。愛されすぎて兄弟を見下す人と、自分の好みの人だけを偏愛する人と、愛されなさすぎで兄弟を妬む人です。皆それぞれに弱さを抱えています。それゆえに平和が失われています。わたしたちもまた、この3つの立場のどれかに当てはまるように思うのです。それゆえに神の平和をもたらすはずの教会が、しばしば平和を失うのです。

 さて、ある日ヨセフが2つの夢を見ます。旧約聖書において夢とは、神が御心を示すために用いられた手段です。1つ目の夢と、それに対する兄たちの反応が5〜8節です。ヨセフの夢が神のご計画であることは、もはやこの物語における前提です。平和の神のご計画が示されたとき、この家族の平和が回復したのではありませんでした。実際はまったく逆でした。兄たちはヨセフをますます憎みました。神の御心がかえって人々の反発を生み、緊張関係をもたらすことがあるのです。それはしばしば、人の望むようなものではないからです。この緊張関係は、2つ目の夢において更に増していくことになります(9〜10節)。この夢をヨセフは、兄たちだけでなく父にも話します。父はヨセフを叱りました。力のない年少者のヨセフに兄たちや、まして両親までもがひれ伏す。これはこの当時のカナンにおいて、常識的にはあってはならないことでした。それゆえに兄たちも父も、ヨセフに抗議しています。しかしこの抗議の言葉が、ヨセフの夢を解説する役割を担っています。後に彼らの抗議の言葉がそのとおり実現することになります。これが、人の思いを超えた平和の神の驚くべきご計画でありました。

 この神のご計画が示されたとき、兄たちも父も、それを受け入れることができませんでした。当時の常識から外れていたから、だけではありません。その常識において、兄たちも父も優位な立場にあったからです。彼らにとってヨセフの夢に示された神のご計画は、自らが今手にしているものを脅かす内容でした。神のご計画は、優越的な地位にある人々を脅かす方向性を持っています。それを誰よりもはっきりと示されたのが主イエスキリストです。それゆえに優越的な地位にあった祭司たちやファリサイ派の人々は、キリストに示された神のご計画を受け入れることができません。それゆえ彼らは、キリストを十字架にかけ、神のご計画をなきものにしようとしました。結果的にこの十字架によって、かえって神のご計画は実現していくことになります。一方で、神の平和のご計画を受け入れることのできない人々は妬みを加え、ますます平和を失っていくことになります。それがまさに今日の箇所での兄たちの姿です。

 冒頭申しましたとおり、ヤコブの一家は神のご計画の実現のために特別に選ばれた器です。その一員である兄たちが神のご計画を否定し、なきものにしようとしました。それは神のご計画によって、すでに自らが手にしている優越的な立場が危うくなるからです。今自らが手にしている何かを守ろうとする。この思いこそがこの家族の平和を壊し、彼らに神の平和のご計画を拒否させたのです。当初は父ヤコブも、ヨセフの夢に示された神のご計画を受け入れることができませんでした。しかし11節の最後には、「父はこのことを心に留めた」とあります。常識的からは大きく外れたヨセフの夢を、必ず実現する神のご計画として心に留めたのです。それは彼にとって簡単なことではありませんでした。自らの立場が危うくなる可能性を、許容しなければなりません。それでも父ヤコブはそれを心に留めたのでした。ここに神のご計画の実現に向けた、仄かな光が示されています。

 

 わたしたちはそれぞれに、居心地の良さや兄弟姉妹からの評価など、教会に集うことによって得てきたものがあります。逆にそういったものが与えられず、それを求めて兄弟姉妹への妬みに燃えてしまうときもあります。それはキリストの救いに与り、特別に神の御計画の器として選ばれた者であっても例外ではありません。しかしそれらを手に入れ、守ろうとする思いだけになると、平和を失ってしまいます。いま得ているものを、無条件に手放す必要はありません。大いにその恩恵を受ければよいのです。しかし神の平和のご計画のために必要ならば、それらを喜んで手放す自由をも持ち続けたいのです。この神の平和のご計画とは、キリストの十字架による罪人の救いです。自分の周りの人々が、キリストの十字架によって救われていく。兄弟姉妹が、キリストの十字架の恵みを受ける。そのために必要ならば、今自らが持っている何かを手放すことができる。この自由の中においてこそ、神の平和は実現するのです。わたしたち自身も、妬みの中にではなく、この自由と平和の中に生きてまいろうではありませんか。