2025年3月16日礼拝説教「嵐の中で」

聖書箇所:マタイによる福音書8章23~27節

嵐の中で

 

 主イエスと彼に従う弟子たちは、今日の箇所で向こう岸へと舟で渡ります。この旅路は、18節の主イエスのご命令によるものでした。舟は、特別な意味が込められた言葉です。ユダヤ教の伝統によれば、舟は人の魂を指す言葉です。また古代教会の指導者たちは、舟が教会を示していると解説しています。どちらが正しい、というわけではなく、両面の意味合いから理解するのが良いでしょう。この旅路を信仰者個人の歩みと理解にするにしても、教会の歩みと理解するにしても、それは主イエスの御言葉に従って主イエスと共に歩む旅路です。その意味で、聖書の教える理想的な歩みをしていると言ってよいでしょう。しかしそれは順風満帆な航海ではありませんでした。湖に起こった激しい嵐によって、小さな舟は波にのまれそうになります。もはや沈没寸前です。御言葉に従い、主イエスと共に歩めば、何も危険がないわけではありません。それどころかこの嵐は、主イエスに従ったからこそ遭遇したのです。主イエスに従うとき、嵐の中の舟のようにわたしたちや教会は揺れ動き、危険にさらされます。なぜ主イエスは助けてくださらないのか。なぜ主イエスはこのような状況を傍観しておられるのか。弟子たちはそう思ったことでしょう。そしてこの弟子たちの思いは、キリスト者として今を生きるわたしたちもまたよく分かると思います。このような状況のなかで、弟子たちはなんとか主イエスを起こして助けを求めます。「主よ、助けてください。おぼれそうです。」すると主イエスは言われます。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になったのでした。

 主イエスの弟子たちは、どのような点で信仰が薄かったのでしょうか。目の前の嵐を怖がることがいけないのでしょうか。大変な状況に陥ったとしても、不安や危機感を排して、成り行き任せにすべきでしょうか。聖書の他の箇所と合わせて見るならば、明らかにそのような行動が教えられてはいないでしょう。彼らの信仰の薄さは、彼らが主イエスに言った言葉を直訳すると明らかになります。「主よ、お救いください。わたしたちは滅びつつあります。」あたかも主に従う弟子たちがいまだに救われておらず、対応を誤れば滅んでしまうかのようです。彼らは主の弟子であり、救い主が自ら主導権をもって、「わたしに従え」と言って選んでくださった人々です。主が、自らのご意思をもって彼らを選ばれたのです。しかも彼らは主イエスのご命令の言葉に従って歩んでいます。それにもかかわらず彼らは、自らの行いによって、自分が救われるか滅びるかが決まるかのように考えていました。彼らの恐怖は、まさにその点にありました。

 ここに彼らの信仰の薄さが表れています。それは主イエスの救いの御業への信じられなさです。自らの行動によっては、主イエスの救いは効力を失い、自分たちは滅んでしまう。その程度にしか、弟子たちは主イエスの御業を考えていませんでした。その程度の救い主としか、彼らは主イエスを信じていませんでした。だからこそ、彼らは嵐を前にして恐れたのです。それは命を失うことの恐れであり、滅びへの恐れです。恐れおののく弟子たちに、主イエスは「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」と言われます。叱責という以上に、主イエスの愛の配慮が込められています。主イエスは立ち上がって風と湖とをお叱りになられます。するとすっかり凪になりました。それゆえに人々は驚いて「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言ったのでした。主イエスには、嵐に伴う風や湖さえも従う。それほどの権威を、このお方はお持ちである。それがこの箇所でマタイが伝えようとしたことです。ただしそれは、主イエスが天気をも自由にできるお方だ、という意味ではありません。舟が魂や教会を指していたように、嵐や風、湖もまたそれぞれに指し示しているものがあります。24節の嵐は、他の箇所では「地震」と訳されています。聖書において地震とは世の終わりに起こることの一つであり、神の裁きと結びついています。そして湖は、死の力を象徴しています。今日の箇所において舟を襲っているのは、神の裁きであり死です。そのなかで弟子たちは、死んで滅びるかもしれないという恐れにとらわれていました。しかし主イエスが起き上がって叱られると、すっかり凪になりました。最後の裁き、そして死。これらを乗り越えるために必要なものは、弟子たち自身の行動ではありませんでした。彼らが不手際をしないことでもありませんでした。本当に必要でありまた頼りになるのは、最後の裁きと死を治められる主イエスの御言葉です。

 このように主イエスの言葉には、最後の裁きも死も従うのです。このお方の言葉には、それほどの力があります。なぜならそれは、十字架において死んで復活してくださったお方の言葉だからです。聖書に記されたこのお方の言葉の力に信頼し、このお方の言葉に従ってまいりたいのです。このお方の言葉に従う歩みは、決して順風満帆の歩みではありません。主イエスの言葉に従うからこそ、嵐にあうのです。その嵐を前にして、わたしたちは不安に駆られ、恐れ、悩みます。それは当然のことです。しかしその中にあってもなお、主イエスと共に歩むわたしたちが救いから漏れるということはあり得ません。滅びることは決してありません。それはわたしたちが立派だからではなく、十字架のキリストの言葉に力があり権威があるからです。どのような嵐に直面しようとも、そしてわたしたち自身がどれほど罪深く弱かろうとも、十字架と復活の主イエスの言葉は決して力を失うことはありません。この信頼のなかで、この安心のなかで、悩み多き嵐のようなこの世の歩みを、キリストと共に進みゆこうではありませんか。