2025年3月30日礼拝説教「損得勘定がもたらすもの」

聖書箇所:創世記37章12~36節

損得勘定がもたらすもの

 

 前回の箇所においてヨセフは夢を見ます。この夢は、神の御計画であり神の約束です。神の御計画として、この一家がヨセフにひれふすことが示されました。このヨセフは、取るに足らない年少者に過ぎません。それゆえに神の御計画を、ヨセフ以外は受け入れることができませんでした。

 それに続く今日の箇所において、ヨセフが兄たちのところに出かけることになります。父がヨセフを送り出したのは、兄たちを心配してのことでした。ヨセフを偏愛していた父ヤコブではありますが、ヨセフ以外の息子たちにも愛を向けています。こうして父に送り出されたヨセフは、シケムで一人の人の案内を得て兄たちのところにやってきます。それを見た兄たちの行動が、今日のお話の中心です。ヨセフを見つけた兄たちは、彼を「例の夢見るお方」と呼んでいます。もはや彼らの妬みの中心は、ヨセフの見た夢に向けられています。その夢が彼らにとって受け入れがたいほど不都合なものだったからです。彼らが殺そうとしたのは、単純にヤコブという人ではなく、ヤコブの夢です。そしてその夢に示された、自らにとっては不都合な神の御計画です。あろうことか神に選ばれた神の民が、神の御計画をなきものにしようと計画しています。それに対して異を唱えたのがルベンとユダでした。ルベンは21節以下で、ヨセフの命をとることまではよそうと提案します。それは彼を父のもとに返したかったからです。ただしそれは、あくまで自分が兄弟たちから反感や不利益を被らない程度のものでした。結局兄弟たちはヨセフがやって来ると、彼から裾の長い晴着をはぎ取り穴に投げ込みました。晴れ着は、支配者を象徴しています。それをヨセフからはぎ取ることによって、彼が自分たちの支配者となるという神の御計画を拒否しました。その後ユダが、弟に手をかけることをよそうと言いました(25節以下)。彼が肉親の弟だからです。家族は、律法において特に重視されている関係です。ユダがその律法を重んじる姿を、創世記は描いています。しかし律法を重んじるユダが兄弟たちを説得した際に語ったのは、愛ではなく損得でした。神の律法に従った方が、自分たちに利益があるではないか。そのような損得勘定が、ユダの発言から透けて見えます。結局ユダのこの提案は、実現することはありませんでした。兄弟たちが話し合っている間に通りがかかったミディアン人の商人たちが、ヨセフを穴から引き揚げました。そして銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、ヨセフはエジプトに連れて行かれることになったのでした。

 穴からヨセフがいなくなったことを見たルベンは嘆き、兄弟たちは父に偽装工作をします(29~32節)。支配者を象徴するヨセフの晴れ着は、彼が父母や兄弟たちを支配する神の御計画を示していました。その晴れ着が今や、神の御計画が実現に至らなかったことの証拠として用いられています。もはやヨセフの夢をとおして示された神の御計画は、実現するのが絶望的な状況でした。

 今日の箇所をとおして、神の御計画をなきものにしようとする人の罪が生々しく描かれています。彼らが神の御計画をなきものにしようとしたのは、それが自らにとって都合の悪いものだったからです。そのなかで父への愛や律法の順守の思いが、一定の抑制をかけています。しかしそれらすらも、損得勘定の範囲内にとどまっています。彼らはあくまでも、自らが不利益を被らない範囲のなかで発言し、行動しています。損得勘定が根底にある以上、自らにとって都合の悪い神の御計画をなきものにするという方向性は変わりようがありません。そして、あたかも不都合な神の御計画がなくなったかのように嘘で塗り固めています。それによって彼らは、自らにとって都合の良い世界を偽装するのです。

 これが聖書の示す人間の罪です。その罪がもたらしたのが、子を失った親の嘆きです。慰められることを拒否するほどの、深い嘆きです。そしてこの罪が、ついにはキリストの十字架をもたらすことになります。ユダヤ人たちがキリストを十字架にかけて殺したのは、このお方のお示しになられた神の救いのご計画が彼らにとって都合の悪いものだったからです。この十字架に、損得勘定をとおして神の御計画を拒否するわたしたちの罪が集約されています。その罪の悲惨をキリストは身に受けてくださいました。そして自らの子を失う深い悲しみを、父なる神もまたお受けになられました。

 この絶望的な状況から、神は救いの御計画を実現してくださいます。今日の箇所の36節の小さな一文から、おどろくべき過程を経てヨセフの夢に示された神の御計画は実現していくことになります。同じことが、キリストの十字架においても起こります。救い主キリストが息を引き取られた時点で、キリストをとおしてなされるはずであった神の救いの御計画は失敗したとしか思えません。しかしキリストは復活されました。損得勘定に留まるわたしたち人間の罪を乗り越えて、このお方は蘇られました。そして神の救いの御計画が今もここに、教会という形で、神に信じて従う皆さんの姿をとおして、実現し続けています。

 わたしたちの罪や弱さを超えて、キリストは力強いお方です。聖書に示された神の救いの御計画は、どのような絶望的な状況に置かれようとも、必ず実現します。ここにこそ、わたしたちの確かな希望があります。わたしたちがどれほど罪深かろうとも、目の前の状況がどれほど御言葉からかけ離れていようとも、そしてそれほどわたしたちが深い悲しみや悲惨に陥ろうとも、神は御言葉に示された救いの御計画を必ずこの地に実現してくださいます。この希望に寄り頼みながら、神の救いの御計画に従う一週の歩みをここから始めてまいろうではありませんか。