聖書箇所:マタイによる福音書8章28~34節
受け入れられない癒し
聖書においては悪霊が、生活に影響するほどの力を持つ存在として描かれています。悪霊に取りつかれた二人は、周囲の人びとにも不利益をもたらしています。一方で、わたしたちが普段生活している現代社会ではどうでしょうか。狂暴で暴れる人がいたとしても、悪霊の影響と理解されることはほとんどありません。悪魔祓いではなく、病院での治療や投薬、カウンセリングなどによって解決が試みられることになります。それゆえ今日の箇所のような御言葉を、わたしたちはどこかで科学や医療が発展する前の劣った時代の出来事として見下し、切り捨てているように思うのです。しかしそれでは大切な御言葉のメッセージを見落とすことになります。
まずマタイが、悪霊をどのような存在として描かいているかに注目しましょう。悪霊に取りつかれた二人は、墓場からやってきます。悪霊が墓場を好んだだけでなく、悪霊に取りつかれた二人を他の人々が厄介者として墓場に追いやった面があるのではないでしょうか。狂暴な彼らが町中にいたら不都合です。彼らを墓場においやることで、ガダラ人の社会生活はそれなりに成立していました。そのような彼らのところに、主イエスはガリラヤ湖を渡ってやってきたのでした。
主イエスと出会った彼らは突然叫び出します(29節)。驚くべきことに悪霊は、主イエスが神の子であることを知っており、また恐れています。その時が来たならば、主イエスは悪霊を苦しめ、支配し、滅ぼす権威をお持ちです。その時とは、主イエスが悪に完全に勝利される時です。終末の、世の完成の時を指しているでしょう。今日の箇所をとおしてマタイは、主イエスが神の子であるということ、そしてやがてその時が来れば、このお方が悪霊をはじめとした御心にかなわないすべての存在を滅ぼす権威をお持ちであることを示しています。しかし悪霊は、このような権威を持つ主イエスとの関係を「かまわないでくれ」という言葉で拒否します。できるかぎり主イエスと関わりたくない。それが悪霊の望みでした。ゆえに悪霊は主イエスに、我々を追い出すなら、主イエスからはるかかなたにいる豚の中やってくれ、と願うのでした。豚は、律法において汚れた動物として記されています。主イエスから遠く離れた場所にいて、律法においても聖い神からは遠く離れた存在のなかに行くことを悪霊は望みます。それほどまでに、主イエスや神から遠く離れて生きていきたいと願うのが、マタイの描く悪霊です。その願い通り主イエスが「行け」と言われると、悪霊は二人から出て豚の中に入り、水の中でおぼれ死んだのでした。主イエスや神から遠く離れて生きる先にあるのは、死と滅びのみです。
さてこの出来事の接した豚飼いたちは逃げ出します。そして町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を人々に知らせました。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来ました。彼らはイエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと願いました。聖書に記された主イエスの奇跡を見るときに、「この奇跡が今、目の前でなされれば、たくさんの人々が主イエスを信じるのに」と、わたしは思ったことがあります。しかし実際に主イエスの奇跡に接しても、大半の人々は信じません。なぜなら、主イエスの奇跡によって多くの豚の群れが死んでしまったからです。彼らの財産が失われました。彼らにとっては、二人の人が悪霊から解放されたか否かよりも、自らが経済的な損失を被ったことのほうがはるかに重要でした。そして彼らは主イエスに対して、自分たちの地方から出て行ってもらいたい、と願ったのでした。「出て行ってもらいたい」は主イエスが悪霊たちに命じた「行け」と、同様の意味を持つ言葉です。「行け」という主イエスのご命令は、悪霊自身が望んだことでした。この悪霊と同じ望みを、町の人びともまた望みました。悪霊と同じく主イエスから離れて生きようとする彼らこそが、悪霊に取りつかれています。そのような彼らが行きつく先は、悪霊たちがたどったのと同じ死でありましょう。
この悪霊の姿を見るときに、現代を生きるわたしたちは「悪霊と自分は関係ない」とは言えないでしょう。この霊は、神の存在を否定しようとする現代社会を支配しています。また今日の箇所によれば、悪霊にとりつかれた人々にとって重要なのは、苦しむ人々が解放されることよりも、自らに不利益が及ばないことでした。誰かが苦しんでいるとしても、今の自分に被害がおよばなければよい。この悪霊の望みは、今を生きる人々の望みと重なってはいないでしょうか。そうであるならば聖書に記された悪霊は、今まさに人々を支配し、現代社会において力をふるっていると言えます。主を信じるわたしたちですら、ときにこの悪霊の支配に生きてしまうのです。そのような生き方の先にあるのは、死なのです。なぜならひとたび自らが苦しむ側に陥ってしまえば、誰も助けてくれないからです。わたしたちがそのような悲惨な死を迎えないために、キリストは十字架にかかってくださいました。キリスト御自身が、人々からも神からも見捨てられて死なれました。そしてその死を打ち破って復活されました。このお方こそが、悪霊の支配を打ち破る権威をお持ちです。このお方と共に歩むときに、わたしたちはこの悪霊の支配から解放されます。それはすなわち、自らが不利益を被るか否かよりも、今、悪霊の支配のもとにあって苦しんでいる人々と共に歩むことを大切にする生き方です。そしてその人々が悪霊から解放されたときには、それを心から喜ぶ生き方です。そこにこそ、十字架と復活のキリストにある命があります。この命をいただいたわたしたちは、この場所から、いまだ悪霊が力をふるい支配するこの世へとキリストと共に遣わされていくのです。