聖書箇所:ルカによる福音書23章13~25節
罪人がゆるされるために
受難週は、キリストの十字架の御苦しみを覚えるときです。主イエスキリストが十字架にかかられ、苦しみながら死なれた。この部分に限定するならば、キリスト教の信者でなくても、歴史的事実として受け入れることは容易です。しかしながら「この十字架が、あなたの罪の身代わりのためになされた」と言った瞬間、それを受け入れることが難しくなります。キリスト者であったとしても、このキリストの十字架を本当の意味で受け入れることができているかは、怪しいかもしれません。キリスト者であるか否かに関わらず、キリストの十字架とは一体何だったのかを改めて聖書の御言葉から示されたいと願っています。
今日の御言葉は、総督ピラトが主イエスを尋問して死刑判決を言い渡した場面です。使徒信条においても「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」という言葉があります。しかしながらこの人は、自ら進んで主イエスを十字架につけようとしたわけではありません。むしろ逆です。ピラトは懸命に、主イエスを釈放しようと人々を説得しています。その理由は、死刑に処すような罪を主イエスに見いだせなかったからです。23:4においてすでに、ピラトは祭司長たちと群衆にそのことを伝えています。そして今日の14節と22節を加えて、ピラトは三度も無罪宣告をします。決して気まぐれで一回だけ無罪を言い渡したわけではありません。ピラトが三度も繰り返すほど、主イエスが無罪であることは明白です。さらに15節には、ピラトだけでなくヘロデとても同じであったとあります。十字架につけられた主イエスは、紛れもなく無罪であり罪のないお方である。そのことが、このところにおいて強調されています。
このピラトの無罪判決への人々の反応が18~19節です。バラバの釈放を求めた人々の要求には、背景があります。本文には記されていない17節の異本による訳文が、162頁に記されています。「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」。このときは過越祭の時期です。この時期に囚人が一人釈放されるのが慣例でした。バラバは暴動と殺人のかどで投獄されていました。まごうことなき犯罪者であり罪人です。しかし人々は、このバラバの釈放を求めました。それは人々がバラバを慕ったからではありません。主イエスが無罪放免されることを阻止するためです。イエスを釈放するように提案したピラトに対して人々は22節で「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けます。それまでは「殺せ、殺せ」と言っていた人々の要求が、ここで「十字架につけろ」に変化しています。ですから十字架は、もともとはバラバへの罰だったわけです。その十字架を、人々の要求によって、罪を犯していない主イエスが受けることになったのでした。こうしてバラバは罪赦されて釈放されました。
ところでピラトに対してこのような無茶苦茶な要求をした「人々」とは、いったい誰でしょうか。13節によればそれは、祭司長たち、議員たち、民衆です。その当時の神の民の指導者だけでなく、民衆も彼らに賛同し、主イエスの十字架に加担しています。この民衆とは、指導者ではない一般の神の民を強く意識させる言葉です。このような人々が、指導者たちに扇動されて主イエスの十字架を要求したのです。なぜ民衆は扇動されてしまったのでしょうか。その答えを、使徒言行録においてパウロが無知のためだと語っています(使徒3:17)。無知だからこそ、自らよりも聖書に詳しい指導者たちの言葉を鵜呑みにしてしまったのです。この無知は、無関心とも言えるでしょう。関心がないから、知らないままでいられるのです。民衆のそのような態度が、主イエスを十字架につけたのです。
結果的に主イエスは、バラバの暴動と殺人に対する刑罰である十字架を代わりに身にうけられました。しかしそれはバラバだけの罪ではありません。このお方を十字架で殺すことを要求した民衆の罪でもあります。これら民衆の罪の根本にあるのは、無知と無関心なのです。知らない相手だからこそ、殺せと言えるのです。無関心だからこそ、十字架につけろと要求できるのです。果たしてこの無知と無関心は、約2000年前の十字架だけのことでしょうか。相手のことを知ろうともせず、ただ一方的に批判する無知と無関心が現代にもあります。知らないままでいた方が楽なのです。無関心を決め込んで、周囲の人々と同じように批判を向けているほうが安全です。しかしそれによって、今もまさに多くの人々が一方的に責められ、死んだも同然の状況に陥っています。そのような無知と無関心を、主イエスはあの十字架で背負われました。このお方自身は、何の責められるところもありませんでした。このお方が人々から理解されることはありませんでした。そして、お前など死んだほうがいい、十字架で苦しんで死ぬべきだという、人々からの一方的な批判を身に受けられたのです。
主イエスが受けられたこの状況は、本来ならば無知と無関心のなかに生きるわたしたちが負うべきものです。この無知と無関心を担われた主イエスが十字架上でなされたのが、34節に記されている赦しを執り成す祈りです。このお方は、自らに無関心な人々に、無関心を返すことはありませんでした。むしろその人々の思いと危うさを、誰よりも理解されました。無知や無関心の対極に、十字架の主イエスはおられます。この十字架のもとから、わたしたちは無知と無関心を克服する道を歩みだしたいのです。自らを苦しめる人々が、いったいどのような状況に置かれているかに関心を向け、そして何よりも無知と無関心を十字架で担われた主イエスキリストを聖書の御言葉をとおして知ろうではありませんか。
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